2016年9月1日木曜日

審決取消訴訟 特許 平成27(行ケ)10216  訂正審判 不成立審決 請求棄却

事件番号
事件名
 審決取消請求事件
裁判年月日
 平成28年8月29日
裁判所名
 知的財産高等裁判所第2部
裁判長裁判官清水 節
裁判官片岡早苗
裁判官古庄 研 

「(3) 本件公報に接した当業者の認識について
ア 前記(2)イのとおり,本件訂正前の明細書には,燐酸を示す化学式として,ホスホン酸の化学式が6か所にわたり記載されているというのであるから,「スルホン酸,燐酸及びカルボン酸からなる群」に含まれない「オクタデシルホスホン酸」が作用成分として記載されていることとも相まって,本件公報に接した当業者は,「燐酸」又は「リン酸」という記載か,ホスホン酸の化学式及び「オクタデシルホスホン酸」という記載のいずれかが誤っており,請求項1の「燐酸」という記載には「ホスホン酸」の誤訳である可能性があることを認識するものということができる。
イ しかし,更に進んで,本件公報に接した当業者であれば,請求項1の「燐酸」という記載が「ホスホン酸」の誤訳であることに気付いて,請求項1の「燐酸」という記載を「ホスホン酸」の趣旨に理解することが当然であるといえるかを検討すると,前記(1)イのとおり,請求項1の「燐酸」という記載は,それ自体明瞭であり,技術的見地を踏まえても,「ホスホン酸」の誤訳であることを窺わせるような不自然な点は見当たらないし,前記(2)アのとおり,本件訂正前の明細書において,「燐酸」又は「リン酸」という記載は11か所にものぼる上,請求項1の第2の処理溶液の作用成分を形成するアニオン界面活性剤としてスルホン酸,カルボン酸と並んで「燐酸」を選択し,その最適な実施形態を確認するための4つの比較実験において,燐酸や燐酸基が使用されたことが一貫して記載されている。
 そうすると,化学式の記載が万国共通であり,その転記の誤りはあり得ても誤訳が生じる可能性はないことを考慮しても,本件公報に接した当業者であれば,請求項1の「燐酸」という記載が「ホスホン酸」の誤訳であることに気付いて,請求項1の「燐酸」という記載を「ホスホン酸」の趣旨に理解することが当然であるということはできない。
 以上によれば,本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)を訂正することは,本件公報に記載された特許請求の範囲の表示を信頼する当業者その他不特定多数の一般第三者の利益を害することになるものであって,実質上特許請求の範囲を変更するものであり,126条6項により許されない。
(4) 原告の主張について
ア 原告は,前記(2)イによれば,本件公報に接した当業者は,「燐酸(又はリン酸)」と「ホスホン酸」のいずれかが誤りであることを予測することができたとした上で,原文明細書等を参照すれば,ホスホン酸を示す記載はあるが,燐酸を示す記載はないから,当業者は,訂正前の「燐酸(又はリン酸)」が「ホスホン酸」の誤訳であることを認識することができた旨主張する。
 しかしながら,126条6項の要件適合性の判断に当たり,原文明細書等の記載を参酌することはできないから,原告の主張は採用できない。すなわち,同項は,第三者に不測の不利益が生じることを防止する観点から,訂正前の特許請求の範囲には含まれないこととされた発明が訂正後の特許請求の範囲に含まれるという事態が生じないことを担保するために,訂正後の特許請求の範囲が訂正前の特許請求の範囲を実質上拡張又は変更したものとなることを禁止したものである。そして,特許権が設定登録により発生すると,願書に添付した明細書及び特許請求の範囲に記載した事項並びに図面の内容が特許公報に掲載されて,第三者に公示され(66条1項,3項,29条の2),第三者が利害関係を有する特許権の禁止権の範囲である特許発明の技術的範囲は,この願書に添付した特許請求の範囲に基づいて定められ,その用語の意義はこの願書に添付した明細書及び図面を考慮して解釈するものとされている(70条1項,2項)。ところで,本件特許のような外国語特許出願においては,出願人は,翻訳文明細書等及び要約の日本語による翻訳文を提出しなければならないとされており(184条の4第1項),翻訳文明細書等及び国際出願日における図面(図面の中の説明を除く。)(以下「国際出願図面」という。)が36条2項の願書に添付した明細書,特許請求の範囲及び図面とみなされる(184条の6第2項)。このように,本件特許のような外国語特許出願においては,特許発明の技術的範囲は,翻訳文明細書等及び国際出願図面を参酌して定められ,原文明細書等は参酌されないから,126条6項の要件適合性の判断に当たっても,翻訳文明細書等及び国際出願図面を基礎に行うべきであり,原文明細書等を参酌することはできないというべきである。原告の主張するように,同項の要件適合性の判断に当たり原文明細書等を参酌することができると解した場合には,誤訳の訂正の許否は原文明細書等を参酌しないと決することができないことになるから,訂正審決の遡及効(128条)を受ける第三者としては,我が国の特許庁によって公開されるものではなく,外国語により記載された原文明細書等を,翻訳費用や誤訳の危険を自ら負担して参照することを余儀なくされることになるが,このような解釈が第三者に過度の負担を課すものであって不当であることは明らかである。
 これに対して,原告は,原文明細書等は126条1項2号の要件適合性の判断に使用される資料であり,同条1項と同条6項の条文の配置からすると,同条6項は訂正目的に応じて判断基準が異なることを当然の前提としており,原文明細書等を同項の要件適合性の判断に使用することができる旨主張する。しかしながら,同条1項2号の要件適合性と同条6項の要件適合性とは別個の訂正要件についての判断であるから,その要件適合性の判断に当たり参酌できる資料の範囲についてもそれぞれの訂正要件の目的に応じた解釈がされるべきものであり,同条1項2号の要件適合性の判断に当たり参酌できる資料であることは同条6項の要件適合性の判断に当たり参酌できることを基礎付けるものではない。そして,同条6項の要件適合性の判断に当たっては,同項の趣旨に照らし,原文明細書等を参酌することができないことは既に説示したとおりである。
 また,原告は,第三者が無効審判請求において原文明細書等を証拠とできることとの均衡や証拠共通の原則,あるいは,審査段階で審査官が記載の不備を発見して拒絶理由通知をした場合との均衡などを主張する。しかしながら,特許権者は自らの責任において誤訳を含む翻訳文明細書等を提出し,その後も誤訳の訂正を目的とする補正を行う機会が与えられていたにもかかわらず,その機会を活かすことなく,誤訳を含んだまま設定登録を受けて,特許権を発生させたのであるから,特許公報に掲載された願書に添付した明細書及び特許請求の範囲に記載した事項並びに図面の内容に基づいて特許発明の技術的範囲を認識する第三者の信頼を保護するために,特許権者が一定の不利益を被ることがあったとしてもやむを得ないものというべきである。原告主張の各事情は,第三者に不測の不利益が生じることを防止することを目的とする126条6項の「特許請求の範囲」を判断するに当たり,第三者が原文明細書等を参酌しないにもかかわらず,これを参酌できるものとする根拠とはならない。
 さらに,原告は,外国語特許出願については,国際公開番号が国内公表の対象になっており,特許掲載公報に原文明細書等が含まれないのは既に公開されているからである旨主張する。しかしながら,外国語特許出願に係る特許においては,特許発明の技術的範囲は,願書に添付した特許請求の範囲とみなされる国際出願日における請求の範囲の翻訳文に基づいて定められ,その用語の意義は願書に添付した明細書及び図面とみなされる国際出願日における明細書及び図面の中の説明の各翻訳文,国際出願図面を考慮して解釈されるのであるから,原文明細書等は第三者が特許発明の技術的範囲を把握するために必要となるものではない。また,原文明細書等は,我が国の特許庁によって公開されるものではなく,外国語により記載されたものであり,第三者がこれを参酌するためには,翻訳費用や誤訳の危険を自ら負担する必要がある。そうすると,たとえ第三者が国際公開番号の開示を受けたとしても,訂正前の特許請求の範囲を把握するために原文明細書等を参酌することが一般的であるということはできない。したがって,国際公開番号が第三者に開示されることは,126条6項の要件適合性の判断に当たり原文明細書等を参酌できるものとする根拠とはならない。
イ 原告は,126条6項の要件適合性は「第三者に不測の損害を与えるか否か」を判断基準とすべきであり,「第三者の不測の損害」は技術分野等を勘案して個別具体的に決定すべきであるところ,本件発明を実施することができる第三者は電力会社や3つの陣営にほぼ集約された原子炉メーカーに限られるし,本件特許の技術分野における競業他者は米国や欧州で設定登録された特許権のクレームを監視するのが通常であり,本件公報の発行から本件訂正の予告登録までは4か月余りにすぎず,この間に本件訂正後の特許請求の範囲に係る発明が実施又は実施の準備をされていたとは考えられないから,本件特許の訂正を認めたとしても,第三者に不測の損害を与えることにはならない旨主張する。
 しかしながら,原告の主張は,「実質上特許請求の範囲を拡張し,又は変更するものであってはならない」という126条6項の文理を離れた独自の解釈というほかなく,到底採用することはできない。
ウ 原告は,本件訂正前の明細書の【発明を実施するための形態】の欄には,ホスホン酸に関する発明が記載されているものの,燐酸(又はリン酸)に関する発明の実施例については一切記載されていないから,本件特許の訂正を認めたとしても,第三者に不測の損害を与えることにはならない旨主張するが,前記(2)アのとおり,本件訂正前の明細書の【発明を実施するための形態】の欄(【0011】ないし【0032】)には,本件発明の第2の処理溶液の作用成分を形成するアニオン界面活性剤としてスルホン酸,カルボン酸と並んで燐酸を選択し,その最適な実施形態を確認するための4つの比較実験において,燐酸や燐酸基が使用されたことが一貫して記載されているほか,第2の処理溶液の界面活性剤として燐酸誘導体を使用した場合の最良の結果が得られるpH値の範囲や,第2の処理溶液の作成方法として燐酸又はリン酸塩を添加することなどが記載されている。原告の主張はその前提を欠くものであり,失当である。
エ 原告は,外国語特許出願に係る特許について誤訳の訂正を目的として特許の訂正をする場合,発明特定事項は変更されるのが通常であるから,発明特定事項を変更することが直ちに実質上特許請求の範囲を変更することに当たるものではないし,発明特定事項を変更するものであることを理由に特許請求の範囲を実質的に変更するものであるという審決の判断は,126条1項2号,184条の19を無意味にするものであると主張する。
 しかしながら,審決は,原告の平成27年3月23日付け意見書の主張に対する判断の中で,「訂正前の明細書には,『-PO3H2』基と同時に『燐酸』基の記載もされており,『燐酸』基の化学式は,上記ホスホン酸基『-PO3H2』と類似している-PO4H2であるため,どちらの記載が正しいか決められるものでなく,訂正前の明細書の記載から,当業者が,訂正前の特許請求の範囲における『燐酸』が正しくは『ホスホン酸』と記載されるべきものであると理解し得るとはいえない。また,上述のように,訂正前の明細書においては『燐酸』基と『-PO3H2』基の記載が混在している状況で,訂正前の特許請求の範囲には『燐酸』と記載されていることから,特許請求の範囲に記載された『燐酸』が正しいと第三者が理解することが通常であるといえる。すると,訂正前の特許請求の範囲の記載を『燐酸』から『ホスホン酸』に訂正することは,第三者の通常の理解とは異なるものとなるから,訂正によって第三者への不利益が生じることは明らかである。」と説示するように,訂正前の特許請求の範囲に記載された「燐酸」と訂正後の「ホスホン酸」という記載とを形式的に比較して判断したものではなく,訂正前の特許請求の範囲に記載された「燐酸」が当業者(第三者)に「ホスホン酸」と理解され,訂正の前後を通じて特許請求の範囲に変更がないといえるか否かを実質的に検討していることが明らかである。したがって,審決は,発明特定事項についての誤訳の訂正であることから直ちに実質上特許請求の範囲を変更することに当たるものと判断したものではない。
 上記のように訂正の前後を通じて特許請求の範囲に変更がないといえるか否かを実質的に検討する審決の判断が,126条1項2号や184条の19の存在意義を失わせるものでないことは明らかであり,原告の主張は失当である。
(5) 小括
 以上によれば,本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)は,特許請求の範囲を実質的に変更するものであって,126条6項に規定する要件に違反するものであるとして,本件訂正は認められないと判断した審決に誤りはない。」

【コメント】
 訂正審判の事件という,ここで紹介するのがはじめてのものです。
 
 訂正前のクレームは以下のとおりです。
【請求項1】
-第1の処理ステップで,部品材料の腐食によりこの部品上に生じた酸化物層を,除染用の有機酸を含んだ第1の水溶性の処理溶液で剥離し,
-これに続く第2の処理ステップで,少なくとも部分的に酸化物層が取り除かれた表面を,この表面に付着している粒子を除去するための作用成分を含んだ第2の水溶性の処理溶液で,処理する原子力発電所の冷却系統の構成部品の表面の化学的な除染方法であって,
 前記作用成分がスルホン酸,燐酸,カルボン酸及びこれらの酸の塩からなる群から選ばれる少なくとも1つのアニオン界面活性剤で形成されている除染方法において,前記第2の水溶性の処理溶液が,遅くとも前記第2の処理ステップの終了する前に,イオン交換器に導かれることを特徴とする除染方法。
」 
 
 他方,訂正後のクレームはこうです(認められなかったやつです。)。
「【請求項1】
-第1の処理ステップで,部品材料の腐食によりこの部品上に生じた酸化物層を,除染用の有機酸を含んだ第1の水性の処理溶液で剥離し,
-これに続く第2の処理ステップで,少なくとも部分的に酸化物層が取り除かれた表面を,この表面に付着している粒子を除去するための作用成分を含んだ第2の水性の処理溶液で,処理する原子力発電所の冷却系統の構成部品の表面の化学的な除染方法であって,
 前記作用成分がスルホン酸,ホスホン酸,カルボン酸及びこれらの酸の塩からなる群から選ばれる少なくとも1つのアニオン界面活性剤で形成されている除染方法において,前記第2の水性の処理溶液が,遅くとも前記第2の処理ステップの終了する前に,イオン交換器に導かれることを特徴とする除染方法。
」 

 要するに,燐酸をホスホン酸に訂正する,というものです。

 審決は,「本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)は,いずれも「燐酸」ないし「リン酸」の記載個所に対応する原文の記載個所には「Phosphonsäure」と記載されており,その日本語訳は「ホスホン酸」であるから,特許法126条1項2号(以下,条文番号を示す際は,特に断らない限り,特許法を示すものとする。)に規定する「誤訳の訂正」を目的とするものであるが,特許請求の範囲の請求項1における構成の一つである「燐酸」を異なる物質である「ホスホン酸」に訂正することは,上記請求項1の発明特定事項を変更するものであり,特許請求の範囲を実質的に変更するものであって,126条6項に規定する要件に違反するものである。
 
 誤訳なんだろうけど,クレームを実質的に変更するものだから,ダメよというわけです。
 
 ちなみに,燐酸とホスホン酸との違いは, 「燐酸の化学式は「H3PO4」(リン原子Pと結合する酸素原子Oは4個)であり,ホスホン酸の化学式は「ROP(OH)2」(リン原子Pと結合する酸素原子Oは3個)である(甲16)」らしいです。
 つまり,構成される原子は同じですが,結合の仕方がちょっと違うというもののようです。
 
 それ故, 訳者が間違えたのでしょう。ちなみに,どこが訳したのかは分かりません。
 パターンとしては,外国の出願人が独自に翻訳して(勿論業者に頼むこともあります。),日本の弁理士に依頼するというパターンもありますし,外国語の明細書を日本の弁理士送付し,翻訳から出願から全部依頼するパターンもあります。
 本件だと,前者なら,日本の事務所の責任になりませんが,後者だったらアイタタタです。

 さて,判決は,それだったらこういうときにマズイでしょ,という原告の反論を尽く退けています。
・原文みればホスホン酸とわかりますよ→ 126条6項の基準は原文じゃない
・無効審判なら原文見れるじゃないですか→自分で気付かず設定登録したのでしょ
・本件では燐酸の実施例なんてない→よく見ると載っているじゃない
・そんな言うなら誤訳の訂正なんてできない→本件では明らかな誤り(誤訳)かどうか分からん

 結局のところ,裁判所が価値判断として,何を尊重したかというと,
訂正審決の遡及効(128条)を受ける第三者としては,我が国の特許庁によって公開されるものではなく,外国語により記載された原文明細書等を,翻訳費用や誤訳の危険を自ら負担して参照することを余儀なくされることになるが,このような解釈が第三者に過度の負担を課すものであって不当であることは明らかである。
の所なのだと思います。
 
 だから,今回はNGとしたのです。それ故,誰がどう見ても,これは誤記だったり誤訳だったりするものまでNGとしたわけではありません。
 
 とは言え,これは誤記(誤訳)なんだから,フリーハンドで訂正(補正も)が許される,と思うのは安易だということだと思います。